昭和40年03月01日 朝の御理解
風邪をひきましたようでございます。例えば、風邪でも、これは風邪ぎみだなと、思う時には何とはなしに体がこうぞこっとこういたします。ああ、これは風邪ひいたなということが大体感じられます。昨日一昨日が、どうも扁桃腺がはれて、風邪をひいたなと。その前は、体がちょっとこう、ぞこっとした時にやっぱ風邪ひいとったんでしょうね。それから昨日は、もう鼻水が出て、鼻水がでて仕方がない。気分は、別にこう、どうと言う事はないのですけれども。
ところが昨日、永瀬さんところの謝恩祭を終わらせて頂いて御直会を頂く頃から、少し熱発してまいりました。気分が悪いんですね。もう帰りましたら、私はもうそのまま休ませて頂いたんですけれども。今日はやっぱり少し熱もありますが、今日は咳になっとる、咳が出よります。言うようにですね、例えばこれからまた良くなる。その時その時の風邪にもよることでもございましょうけれども、この一つの段階と言うか、順序というのがあるですね。風邪にでもそうですからね。ハッキリしてます。
一つのおかげというようなことでも、やっぱり同じことがいえると思う。ですからその風邪と同じこと。ね、どこの場合、どこの場合であっても大事にしなければいけません。風邪をこじらかせたりして、えー、しますと、風邪は万病の元とさえ申しますから、ね、取り返しのつかないことにさえなりますように、私共が日々信心させて頂くものは、一言、一言を大事にしていかなきゃあいけない。
今日、私ご神前にでらせてもらいましたら、昔、『矢立』というのがございましたね。これが矢立ね、知っておられるでしょ。これはあの、携帯用なんですね。携帯用の、昔は万年筆なんかなかったですからね。これをみんな必ずもって、帳面に通につけたりせんならんですから、こうやってこうしてさしていった。この『矢立』を頂くんですね。ああ、と私は思ったんですけれども。信心にはいつでも、何処ででも稽古がなされなきゃいけないということですね。どんな事柄の中からでも、信心を頂いて行かなければいけない。もう、朝晩だけで良いって言う事はないということですね。
どのようなことにでも、言わば、携帯用の矢立をいつも持っておかなきゃならん。しかも、矢立でなからなければならないということ。まあ心は矢猛にはやれどもといったような言葉がありますから、そういう風に、文字って考えたんです。ね、もう節に、止むに止まれぬおかげが頂きたいと、ね。おかげが頂きたいと思うなら思うほどです、信心を分からせて頂きたい、ご真意が分からせてもらいたいという、思いもやはり切でなからなければいけないということです。ね、
そういう、本気でおかげを頂きたいと願えば願うほどです、ね。切に、どのようなことの中からでも信心にならせてもらう、どのような中からでも、神様を分からせてもらわなければならんと。ご真意を悟らせてもらわなければならんと言うこと。そこに、初めてです、私は、何と申しましょうか。あの、楽譜で、ね、五線の上に、こう、いわゆるおたまじゃくしがついてますでしょう。
あれを符と申しますね。その符がです、神乍にならその一言一言がです、信心でなされていく時にです、この一日なら一日を終わらせて頂く時にです、それを弾いてみますとです、いわゆる言わば歌が、歌の音楽なら音楽の音色が、分かるのでありそれを聞きとることができるのです。信心生活の妙なるまでの、音色というものを、弾かせて頂くためにです、その、一つ一つの音符が大事にされなければならない。
どこが抜けてもちょっと間が抜けたようなですね、だからこのことだけこのことだけはです、ね、というて信心では、そういうわけにはいかんのです。ね。私はおかげを落としたということがあってもいいと思うんですよ。はあここは言うちゃならんと思いながらも、ついつい言うてしもうた。そこにお詫びをさせて頂いたっと言うのが、符がつけられ、高く低くです、これがこうなされていく時です、一日の終わり終わりにですね、一つの歌なら歌が、奏でられるような一日でなからなければらない。
それが半年それが一年と、言う様にもう愈々大音の音響をですね、発するようになり、いわば天地が驚愕なさる、天地がたまがりなさる、天地が変動して下さる、私のために天地が私のために動いて下さると言った様なです、ね、大音響にもなって来るということを私は感ずるです、ね。いわゆる大きなおかげを頂くためにはです、どうでも私は小さい一言、一言の中に信心がなされていかなければいけないということ。
それは、もう私共人間のことでございますから、ね。どこにお粗末ご無礼があるやら分かりませんけれども、だから、自分の心を言わば、信心が分からせて頂きたいというような心で、心が早っておれば早る程、切実であればです、ね、それがなされていくとこう思うのですよ。昨日、謝恩祭に、秋永先生が参りません。お祭りがすんでも参りません。御理解時になっても来ません。
もうご直会の時分にやってまいりましたですね。どうしよったですかち。それがああた、もうでかけにちょうど、仕立物を届けなければならないところを、ちょっと思い出したものですから、そちらの方を先にしてこちらにまいりましたと。甘木の方から直接田主丸のにきとる。昨日は、竹葉会でございましたですから、あちらの家内、ふみさんがここに来ておりました。
でお父さんがこっから乗せてってくれると約束しとったもんじゃけん、とうとう、午後から晩の十一時まで、ここで結局待ち過ごしたわけなんですね。でまあ、自動車の中で、先生方と話したことですよ。今日は秋永先生が怒られるにやならんち(私が?)(笑い)もう、覚悟してから、あの、帰らなんいかんばいちいうてから私が秋永先生笑っとりましたけれどもですね、もうそういうその一つのことがらの中にでもですね、秋永先生は秋永先生で、信心になり、家内は家内でおかげを頂く場があるのですね。
だから、もう私はそんなことでございましたもんですから、すぐ休みましたもんですから、まあどういうようなことになったかけれども、まあ入った途端、ニコニコしてからお帰りなさいち言うてから、言いよんなさいましたから、ああおかげ頂いちゃるなと思ったんですけれどね。ああたばっかりじようけんにおよばんちもし言うとったら、おかげ落とすとこばってん、もう(久しぶりに夜の御祈念頂いてから?)、本当にお広前までゆっくりさせて頂いて、おかげを頂いたというごとあるなら、おかげをいただいとるばいなあというて話たことでしたけれどね。
もうそのどのようなことの中にでも、妙なる、いわば、おかげというのが頂けれるようになってるんです。だからもう、どうようなことの中、例えば、田主丸の謝恩祭に夫婦でおかげを頂いたことがおかげか、ね。本当におかげは頂けなかったけれども、ここ何時間という間待たせて頂いておる間に、ね、色んなことを分からせて頂いたということになってくるところにですね、私は信心の味わいというものもあると。
お互いが信心が分かりたいと、おかげが頂きたいという切な願いを持つならもつほどです、やはり信心が分かりたいという、願いもまた、節でなからなければならないと。私は、ここ二、三日、その自分の風邪具合の悪い事からです、でその風邪一つでも、風邪を、あ、こりゃおかしい、ちょっと風邪、風邪ひいたなとこう思うところからです、この全快のおかげをを頂くまでには、様々な段階がある。
もうはっきりしてる。ね、ぞごっとしたなと水鼻が出る。あくる日は喉が腫れるとか。あくる日はねっぱつをするとか次は咳がでると。というようにですね、しておりますから、結局その一つの符につづられていく時にね、一つのおかげというものが生まれてくる。だからどういうひとこまでもお粗末にしてはならないということ。今朝私がご神前で、ね、矢立を心眼に頂かせてもろうてから、そんなことを感じたんです。ね。
まず私共の心がです、心は矢猛にはやれどもというようなです、切実感というものが神様に向けられとかなければ矢が向けられるように、自分の心が向けられとかなければならないということ。そしてさあ今日はどの手でと言ったようなですね、さあといったようなものがなからなければいけないと思うのです。私は感じております。今日はおそらくねっぱつをして、気分が悪いけれども、おそらくお月次祭を仕えさせて頂く頃は、この熱が下がるんじゃないかと自分で思うとります。
晩はお月次祭を控えておりますからね。ですから、そのためには私が、ただ今から、今日のお祭りを仕えるまでの間はですたい、大事なのですよ。ね。もうとにかく熱があって、あれお祭りが、そのう本当のお祭りを仕えられないことであってはなりません。本当の、神様がご都合であるな、お繰り合せであるなということが分かるようなです、ね。今日私はねっぱつしておかなければいけないことが、もしあったとするならです、本当に風邪にたいしてお礼が言えることになるんです。
私が今日は頭が痛となからにゃ、いけじゃったという事がもしあるとするなら。ね。そしたらおかげを頂いてから、必要な時に必要に応じて、体のうえにもです、おかげですっきりとして、爽やかな気持でお祭りが仕えられるようなおかげを頂けた時です、初めて一つの、ためにも、私は今日ただ今から、今晩までの信心がです、ね、どのような小さいことにでも信心に取り組んでいかなければならない、いわば音符を一つ一つー、高い低いの音符をです。
5線の上に記していかなければならない。ね、そこに、今日一日の今晩まあどういう答えがでるか分かりませんけれども、おかげを頂けれるのだと。次にですね、これは、みなさん考えていただかなきゃならんと思うんですけれど、お雑巾がけをしてるんですね。お雑巾がけをして、きれいにもう綺麗に雑巾がけをしてます。ところがその、後の雑巾をですね、もうそこにひっちらかしにしてあるんです。
ああもう折角のねもうお縁ならお縁が、奇麗になったのに、その汚れた雑巾がそこにひっちらかしてあるならば、こりゃあもう困ったものですね。私共が本当に本心の玉を磨くとこう。というのはこの雑巾がけをしなければならな言う様な時です、その雑巾が粗末にあっちこっちに片付けられてないと言う様なことでは、折角の磨いた値打ちはない。わけなのです、ね。それと、これと、また矢立のことと思うてみて、ね、
風邪のひとつひとつを頂いても、1つの順序、段階というのがあるというわけなんです。だから私は1つのおかげというものを検証する。おかげを頂くためには必ず、高い、低い、はあ、本当にこれでおかげ頂っきるじゃろうかと、本当に神様の働きはなんと素晴らしいことだろうかというふうにです、順調さがあったり、不順であったり、そこを高い低いをとおらせて頂いて、初めて1つのおかげ、信心の有り難さというものがです、体験できると思うのです。おかげ頂かにゃあいけません。